昭和44年01月12日 朝の御理解
御理解 第38節
「垢離を取るというが、体の垢離を取るよりは、心のこりを取って信心せよ。」
垢離と言うのは、肩がこるとか申しますねえ。又は水ごりをとるなんても申しますねえ。このこりを積んでおっては、信心は出来ません。信心がすすめにくい、いつもこりを取る事に心掛けておらねばなりません。肩がこると言う事は、これはどうしようもない、しかし又これをもみほぐしてもらう。こんな気持ちのいいものはない。それこそ五十斤も百斤もあるものを肩に背負うている様にあるのが肩が軽くなる。
いわゆる肩がこっておったんでは、仕事がしにくい様に心のこりがあったら、信心がすすめにくい。ところがこの心のこりを積んだまま信心しておる場合がある。しらない間にこりを積んでおる。三井教会の初代の頂かれてある御教に、「こりを積ますな、こりを積むな、身を慎め」とおっしゃる、身を慎んでおらんと、人にこりを積ませます。人にこりを積ません為には、慎みが大事。例えば女の人が行儀悪くしておるのを見て、女のくせにどうした事であろうかと人に思わせる。
もうそれでこりを積ませている。こりというのは、そういうものが積もり積もっていくものなんです。身を慎めと云うのは、もっと深い意味合いがあるのでしょうが、そういう意味合いで慎みを持たなければならない事が分かります。このこりを積まんと言う事は、心掛けておれば出来ると思うのです。例えば意地悪い人を軽蔑した様な目付き、フンと鼻であしらう様な態度、これなんか、非常に見ておる者に、こりを積ませますですね。やはり、そういう根性悪いものが内容にあるからなんでしょうが。
今日はこの心のこりをとって信心せよ、というところを頂いてみたいと思うのです。丁度肩がこった時にほぐしてもらう様に、いつの間にか知らず知らずの間に、積んでおるこりが何かの拍子に、こりを取ってもらった様に、スキッとする事がありますね。それはどう言う様な時かというと、私は昨日おとといから風邪ぐわいが悪くて、お広前を御無礼しとった。休みつけんのにやすみますから腰が痛うしてこたえん。ゆうべも夜の御祈念が終わって、皆んなテレビの部屋でテレビを見ておった。
私は便所に起きて、どてらを着たままテレビの部屋に入って行った。そしたら何かおもしろいテレビがあっておった。
いつもなら私が行ったらすぐ誰かが立って、先生こちらへと言う訳なのです。ところがいつも私が見る席を、長男と長女が席取っとります。私が行ったけれども立とうともしません。それで一番すみの方へ腰かけとったら、豊美がようやく立って、先生こちらへという。まあ行きましたけれども、テレビを見ながら考えた。いわゆるテレビを見ながら、こりを取って頂いた様な感じであった。こりを取るのはこういう時です。本当に神様ぐらい現金な方はおられんと思うた。
もう一日二日御用が出来なかったら、もう神様がこんなにも粗末にされる。私はそう思うた。「こん奴ばっかりは、横着な、」そう言う事は、毛頭考えません。いうなら二日間お広前を御無礼しとる、それでも時々は出て来てから、四時の御祈念やらは仕えさして頂くが、いわゆる本当の皆さんのお取次やらは出来てない。いわゆるお役に立たんともう神様がこんなに、粗末にしなさると言う事ですよね。
例えば私の娘であり、息子でありますから、さあ先生こちらへと今迄は云いよった。けれどもジロッと見ただけで立とうともしない。だから私は一番隅の方に腰掛けた。腰掛けたら、済まんと思うたのでしょう豊美がさあこちらへと言う。まあやらして頂いたですけれど、けれどもテレビを見ながら私は真から、こりを取らして頂く思いであった。本当にもう爽快です。気分がいいです。本当に神様はお役に立つからこそ、大事に取り扱うて下さると言う事なんですよ。
いかに私でも、もうお役に立たん様になったら、神様は粗末に扱いなさると言う事です。例えばこれを皆さんが人から軽蔑された、人から軽く見られたという時に腹でも立てる様では、もうこりを積んでおるわけですから、軽う見られなければならない私なんだ。粗末に扱われる私、いわゆる「がたしかない」私というところに立ちますとですね。これは、こりを積まんというだけではなくてね。今迄知らず知らずに積んできたこりがですね、もみほぐされる様な思いが致します。
こりを取って信心せよとおっしゃる、私は昨日その事で、ひと晩中信心ちゃ有難いもんだなあと、しみじみ味あわせて頂き、そして今朝の御祈念を仕えさして頂きました。ですから今迄積んできたこりを、もみほぐして下さるチャンスを神様は与えて下さるのだけれども、その事によって却ってこりを積む人がある。これでは馬鹿らしいでしょう。今朝教典を開かせて頂いたら、この三十八節を頂くのです。こりをとって信心せよと、それはもうこりがここに固まっているお互い。
こり積んでない様だけれども、いつの間にかこりを積んでいる。それをです取ってもらうと言う事は、どう言う事かというと、只今の様な事に直面した場合、いうならば腹が立つ様な問題、情けない問題、自分が損になる様な、自分が傷い思いをする様な、難儀に直面した場合、私は、その時こそ、こりをほぐす時だと思います。それはどう言う事かというと、いよいよ自分を見極める時だと思います。そして本当に自分の正体というものが分かった時にです。
それ「がたしかない」私というものを分かった時にです。肩のこりがとれた様な思いが致します。そういうこりを取って信心をする。そこからだから又一段と有難い信心が出来る。こりを積んだまま信心をしたっちゃ駄目。心のこりはこういう時にとらせて頂く、ところが信心が薄かったり、こちらが信心が乱れておる時には、心のこりを取らせて頂くチャンスに恵まれておりながら、却ってこりを積む、あれがあんな事を言うた事は一生忘れん、と行った様な事にまでなりかねん。一生こりを積もうと思いよる。
信心させて頂くならね。こういう根性を、本当に捨てなければいけんです。私はあの人から云われた事だけは忘れられん。そして一辺は仇討とうと思いよる。そう言う事では、信心はすすめられん。そういう根性は神様は好きなさらん。ああ言う事をいわれた。けれどもあのおかげで、こう言う事になってきたと言う事になってきたら、お礼を申し上げる事ばっかりでしょうが。
同時にです知らず知らずの間に、こりを積んでおる、そのこりが難儀の元になっておると言う様な場合です。そういう時に恵まれたチャンスを逃がさぬ様に、おかげ頂かねばなりません。こりを取って信心せよ。そういう心で信心する。だから神様に交いもすりゃあ、良い信心が出来ていくのです。どうぞひとつこりを取って信心せよと仰るのですから、いつの間にか知らん間にこりを積んでおる。もちろん積ませてもならん。
積んでもならんのですけれどいつの間にか積んでおる。人にこりを積ませると言う事の中に、自分の身を慎まないそう言う様な事ででも人にこりを積ませる。自分の意地悪さが意地悪い目つきをする。人を軽蔑した様な目つき表情をする。それが、どの位、周囲の人にこりを積ませるか分からない。大体人を軽蔑するてんなんて、人を軽蔑出来る様な私共じゃないですよ。実際はところが皆さんの中にも、そういう人がある。
そういう心は、おかげ受けられない心なんですから。同時に自分の心から意地の悪いものをとって、心を円満にしていくと、目つきもなんとなしに柔和になってくる。そういう心を頂かせてもらう為の稽古をさしてもらう。そこからこりを積ませんでもすみ、積まんでも済む。それでも知らず知らずに積んでおるこりをです。そういうチャンスを与えられた時に、そのチャンスを生かして、こりをほぐしていく様なおかげ。いわゆるこりをほぐしてこりを取って、信心せよとおっしゃられるのですから。
どうぞ。